停電の町

創作小説倉庫

放課後の鳥たち

 学校の帰り道にあるコンビニの横に回ると、外付けのベンチがある。もうすっかり暗くなってしまった放課後、そこに座って肉まんを食べようと包み紙を開いたところで、どかっと振動を感じた。左どなりに誰かが座ったのだ。見ると、藤谷だ。
「上野くん」
 藤谷が俺の名前を呼ぶ。藤谷とは、一年生のときに同じクラスだった。しかし、それだけだ。サッカー部に入っており顔のいい藤谷は、いわゆる「イケてるグループ」に属していたし、特筆するような事柄はなにもない凡庸な俺は、自分と似たような地味で、だけど居心地のよいグループに属していた。同じクラスだった一年間、俺たちは決して交わることはなかった。藤谷とはつまり、いまも昔も別に親しいわけではなかった。そのため、声をかけられて少し身構えてしまったが、藤谷の声にはどことなく親しみがこめられているように感じて、俺は肩の力を抜く。
「部活、いま終わり?」
 俺はそう尋ねた。
「うん」
「引退っていつ?」
「六月。引退したら、本格的に受験の準備だよ」
 答えた藤谷は、受験やだなー、と呟く。
「上野くんは? こんな遅くまでどうしたの。部活やってなかったよね」
「今日から特別授業が始まったから」
「ああ。あれ、申し込んだんだ。えらいね」
「えらくはないよ」
「俺は、引退してからだな」
 申し込みをすれば、受験対策として予備校のオンライン授業を学校で受けることができる。俺はそれに申し込んでいた。受験やだなー、と藤谷は再び言った。
「ところでさ」
 藤谷が口を開き、
「それ、ひとくちちょうだい」
 俺の持っていた肉まんを示した。
「わかってる。自分で買えって思うかもだけど、今日、俺、財布忘れちゃって……」
 言いにくそうに藤谷が続ける。腹が減っていたんだな、と俺は笑い、
「いいよ」
 肉まんを半分に割って、大きいほうを藤谷に渡す。
「わあ、こんなにいいの、ありがとう。なんかごめん。ひとくちでよかったんだけど。でも、ありがとう」
 慌てたように藤谷は言い、半分の肉まんを受け取ると、大口を開けてかぶりつく。その横顔に、なぜか心臓が大きく動いた。
「ぬくいー、うまいー」
 藤谷が言い、俺を見て笑った。その笑顔が、なんだか眩しい。
「それはよかった」
 そう言って、俺も肉まんにかぶりつく。

   *

「寒い。全然、あったかくなんないよね」
 放課後、コンビニの外付けベンチで藤谷が言う。
「まだ四月だから」
 学校帰り、今日も藤谷とコンビにでいっしょになった。藤谷が買った肉まんを半分くれたので、ふたりでベンチに座って食べる。
「四月って、もう春じゃん」
「春の夜は寒いよ」
 藤谷は部活、俺は特別授業で、日が落ちてからの帰宅になる。俺は、藤谷が肉まんにかぶりつく横顔を眺める。心臓がきゅっと甘く痛む。この瞬間の藤谷の横顔が好きかもしれない、と俺は思う。
「なにー?」
 気づいた藤谷が、笑顔で言う。
「なんでもない。食べるとこ見てただけ」
 俺はそう答え、肉まんにかぶりつく。
「あのさ」
 藤谷が口を開く。
「上野くんの趣味ってなに?」
 唐突な質問に、
「趣味? なんで、急に」
 疑問を返すと、
「上野くんのこと、知りたくなったんだよ」
 藤谷が言った。そう言われて、少しだけ体温が上がる。
「趣味とか、特にない」
「本当? なにか好きなこととかないの?」
 そう言われ、思いついたことはある。
「……ああ、ラジオ聴くのとかは、好き」
 ほとんど日常と化しているこれを趣味と言っていいのかはよくわからなかったが、好きなことではある。
「芸人のラジオとか毎週聴いてる。おもしろくて」
 俺は、聴いているラジオを何個か挙げる。
「人の話を聴くのが好きなの?」
「え」
 そんなふうに考えたことがなくて、俺は藤谷の言葉に驚いてしまった。
「そんな発想はなかった」
 俺は思ったことをそのまま口にする。
「話すほうが好き?」
「いや、話すよりは聴くほうがいいかも」
「ふうん」
 藤谷は納得したように言い、「ラジオって、遅くまで起きて聴いてるの?」と続ける。
「いや、リアルタイムじゃなくてアプリで聴いてる」
「どんなの、見せて」
 藤谷が言うので、俺は制服のポケットからスマホを出して、藤谷に見せる。
「ああ、これで聴けるんだ」
 藤谷の頭が近づいて、俺の頭にこつんと軽くくっついた。微かに汗の匂いがした。だけど、不快感はない。それどころか、少しどきっとしてしまった。思えば、高校に入ってからは、こんなふうに他人とゼロ距離までくっついたことなんてなかった。まるで、仲のいい友だち同士みたいだ。
「俺も聴こ。おすすめおしえて」
「うん」
 藤谷はスマホを取り出し、アプリをダウンロードした上に俺の言うラジオ番組をフォローした。社交辞令ではなく本当に聴くつもりなんだ、と思い、なんだかうれしくなる。
「藤谷の趣味は?」
 俺ばかり自分のことを話してしまったような気がして尋ねると、
「趣味……サッ……うーん……」
 言いかけて、藤谷は唸る。
「サッカーって言おうとした?」
 俺の問いに、
「言おうとしたけど、趣味ってカテゴリーでいいのかどうか」
 藤谷は言う。
「サッカー、好き?」
「うん。部活は嫌だなって思うことあるけど、サッカーは好き」
「そっか」
「大学行ってもサッカーするの?」
「うん、したいな」
 藤谷は躊躇いなくうなずくと、
「でも、そのころには、俺の趣味もラジオになってるかもしれない」
 そう言って笑った。その笑顔につられて、俺の表情も緩む。なぜか、鼻がツンとして、目がじわっと熱くなった。なぜそうなったのか、自分でもわからない。

   *

 放課後、右手に藤谷の買ったピザまん、左手に俺の買った肉まんを持って、俺たちはコンビニの外付けベンチに座っている。どちらもはんぶんこにしたのだ。
「上野くんは、何人きょうだい?」
「兄がひとりいる」
 藤谷は肉まんを食べながら、他愛のない話を振ってくる。
「似てる?」
「似てるけど、似てない」
「え、なにそれ、どういう意味?」
 藤谷は笑いながら言う。
「顔だけで言うと、基本的なつくりは似てるんだけど、なんていうか、兄ちゃんのほうが……」
 俺は言葉を探して夜空を見上げた。空気が冷たいからなのか、単純に田舎だからか、星がよく見える。藤谷は、急かすことなく俺の言葉を待っている。
「兄ちゃんがオリジナルだとすると、俺はできの悪いレプリカみたいだって思うことがある」
 そう言ってから、もっと簡単な言葉を思いつく。
「似てるんだけど、兄ちゃんのほうがちょっとだけ顔がいい」
 そんな卑屈な言葉を吐き出してしまった自分を、情けなく思う。
「頭も、兄ちゃんのほうがちょっといい。すごく違いがあるわけじゃないけど、なにもかもが、兄ちゃんのほうがちょっとだけいい」
「俺はひとりっ子だから、兄弟がいる感覚がわかんないんだけど、そういうのってやっぱ気になるの?」
「普段は全く気にならないけど、誰かに言われたときは気にしてしまう」
「誰にもなにも言われなかったら、気にならない?」
「うん。誰にもなにも言われないなら、たぶん気にならない」
 だが、そういうことを言ってくるやつは必ずいる。そして、そういうことを言ってくるのは、縁を切ることが難しい親戚だったりする。そんなことを思っていると、
「なら、いいじゃん」
 藤谷が軽く言う。
「言われないと気にならないなら、上野くん、本当は気にしてないんだよ」
「そっか、なるほど」
 あっさり言われた言葉を、俺は目から鱗のような気持ちで受け取った。そういう考え方もあるのか。
「お兄さんのこと、好き?」
「考えたこともない」
 俺は藤谷の質問に驚く。兄のことを好きとか嫌いとかで考えたことがなかったのだ。
「じゃあ、嫌い?」
 藤谷はさらにそんなことを尋ねてきた。
「いや、嫌いじゃない」
 考える前に、そう答えていた。
「なら、いいじゃん」
「うん」
 藤谷の軽い言葉に、俺の気持ちも軽くなる。
「俺は上野くんのお兄さんを知らないから、俺にとっては上野くんがオリジナル」
 さらに藤谷は言う。
「俺にとっては、たったひとりの上野くん」
 俺を励まそうとしているのか、よろこばせようとしているのか。藤谷はなんだかがんばって言葉を探しているみたいに見える。その様子がかわいくて、その気持ちがうれしくて、俺は、「ありがとう」と小さく言う。


「ちょうどいい時期って、ないのかな」
 ぐったりした様子で藤谷が言う。
「この間まで肌寒かったのに、もう暑いじゃん」
「でも、夜はマシだよ」
 今年の夏は暑くなりそうだ。まだ六月だというのに夏日が続いている。同じ時間帯なのに、夜というより日の暮れかけた夕方という景色。徐々に日が長くなっている。藤谷はパピコを半分に割って、片方を俺に渡してくれる。四月から偶然始まった、この放課後のコンビニの外付けベンチでのはんぶんこは、六月になったいまでも続いていた。
「上野くんに教えてもらったラジオ、ずっと聴いてるよ」
 藤谷が言った。
「最新回を毎週聞きながら、遡って過去回も聴いてる。楽しくてやめらんなくなっちゃった」
 プレッシャーを与えるような気がして、ラジオを聴いているのかなんて自分からは聞けなかったので、藤谷の言葉に俺は単純によろこんだ。
「自分が好きなものを気に入ってもらえるのって、うれしいな」
 俺が言うと、
「上野くん、サッカーに興味ある?」
 藤谷が唐突に言う。
「申し訳ないけど、あまり興味ない……」
 嘘を吐いてもしょうがないので、正直に言う。藤谷はサッカーが好きだと言っていた。俺は、藤谷の好きなものに興味を持っていないことを、本気で申し訳なく思う。
「運動苦手だし、ポジションとかも、キーパーしか知らないレベル」
「よかった。俺、キーパーだよ」
 俺の言葉に藤谷の声が弾む。
「あ、そうなんだ」
 そう言えば、藤谷は身長が高いよな、と思う。キーパーは体格がいいという勝手な思い込みが俺にはあった。サッカーに詳しくないので知らないが、本当は体格なんて関係ないのかもしれない。でも、やはり体格がいいほうが有利なんじゃないかとも思う。ぼんやりとそんなことを考えていると、
「上野くんが唯一知ってるポジションが俺だなんて、奇跡じゃない?」
 藤谷が笑顔でそんなことを言った。俺は困惑する。キーパーなんて、サッカーを知らないやつらが唯一知っているポジション第一位だ。奇跡と言うには弱すぎる。
「そんなお手軽な奇跡ってある?」
「あってもいいじゃん」
 俺の言葉に、藤谷は拗ねたようにそう言った。藤谷が言うと、「それはそうかも」と思ってしまう。
「うん、あってもいいね」
 俺は言い、「でしょ」と笑う藤谷を見る。あの日、藤谷が財布を忘れて、俺に声をかけてきたことも、もしかしたら奇跡だったのかもしれない。そんなことを思ってしまったが、言葉にするには痛々しい気がして、できなかった。ひとりで恥ずかしくなり、平気で「奇跡」なんて言葉を口にできる藤谷を少し羨ましく思う。
「あ、そうだ。俺、今日で部活引退したんだよ」
 藤谷が言った。
「来週から特別授業受けるわ」
「うん」
 クラスが違うので、同じ教室になるのかどうかはわからないが、下校時間は相変わらず同じ時間帯になるのだろう。俺はそのことに対して、うれしさと安堵を感じていた。高校を卒業したら、きっと藤谷とは離ればなれになるだろう。いまは、なぜか気まぐれに仲よくいしてくれているが、卒業したら、藤谷はきっと俺のことなんてすぐに忘れてしまうだろう。それを寂しいと思う気持ちは確かにあるのに、俺はどうすればいいのかわからなかった。だから、藤谷との繋がりが切れるときが少し先延ばしになって、安心したのだ。
「お疲れさま」
 俺は言う。
「三年間も部活を続けるなんてすごいね」
 三年間、帰宅部だった俺は、心からそう思う。
「そんな褒められ方をしたのは初めて」
 藤谷は言う。
「でも三年間も続けるなんて、本当にすごいよ。運動部に限らず、ひとつのことをずっと続けるのは、簡単そうだけど実はすごいことなんじゃないかな」
 ひとりごとのようにそう呟くと、藤谷は、えっへっへ、と変な笑い方をした。
「上野くんに褒められると、なんかうれしい」
 そう言われて、俺も、同じように変な笑い方をしてしまった。目が合って、照れくさいような、くすぐったいような、むずむずした落ち着かない気分になる。

   *

 モナカアイスを真ん中で割ると、制服のズボンにモナカの粉がパラパラとと落ちた。半分を藤谷に渡して、空いた手で粉を掃う。
「上野くんて、大学どこ行くの?」
 藤谷の問いに、俺は第一志望の大学名を答える。
「あー、そっか。そうなんだ……」
 明らかに藤谷のテンションが下がった。
 七月に入ると、周囲はすっかり受験モードだ。藤谷のように部活をしていた生徒たちが六月で引退し、受験に本腰を入れ始めるころなのだ。
「京都に行くんだね」
「受かればね」
「俺は、東京の大学に行くんだ。受かれば」
「うん」
 藤谷が東京の大学へ行くということを、俺はこのとき初めて知った。だけど、なんとなく離ればなれになるだろうなとは思っていたので、やっぱりな、と改めて思う。
「第二志望は東京だよ」
 気休めに言った言葉に、
「でも、それは二番目に行きたい大学でしょ? 俺も、第二志望は大阪だもん」
 藤谷は複雑そうにそう返し、「やっぱり、いちばん行きたい大学に受かりたいよね、お互い」と、ひとりで納得したように言い、俺に「ね」と同意を求めた。
「うん」
 俺はうなずき、夕焼けが紫色だなあ、などと関係のないことを考える。藤谷と、こんなふうに過ごすのは卒業までの少しの間だ。最初からわかっていたこととはいえ、それでもこの時間がずっと続けばいいのに、と思ってしまった。もう少し早く、たとえば、同じクラスだった一年生のときに、こんなふうに会話をするような関係になれていたら、俺の高校生活はもっと違ったものになっていたのかもしれない。といっても、いままでの高校生活に不満があるわけではない。いっしょにいると楽しい友人にも恵まれていたし、いじめられたりしたわけでもない。それなりに楽しく過ごしてきたのだ。だけど、藤谷と過ごす、放課後のこの時間が楽しくて、「もしも」のストーリーを考えてしまう。あれもこれも欲しがってはいけない。贅沢だ。
「大学生活は楽しみ。でも、高校を卒業するのは寂しい」
 藤谷が言う。
「その前に、受験なんだけど」
 受験やだなー、と、ひとりごち、藤谷はこちらを見た。
「卒業までは、こんなふうにいっしょにいようね」
 藤谷が情けない笑顔でぽつりと言ったその言葉が、俺の居場所になる。離ればなれになるのが寂しいと思っているのが、自分だけではないと知った。自惚れかもしれないが、うれしい。
「うん」
 うなずいて、俺は、卒業までのこの放課後の時間を大事にしようと思う。

   *

「夏休み、なにする予定?」
 放課後、いつものコンビニのベンチ。藤谷の問いに、
「予備校の夏期講習」
 俺は即答する。来週から夏休みが始まる。
「だよね」
 藤谷はしょぼくれたように言い、「でもさ、一日くらい、いっしょに遊ばない?」
と提案してきた。
「待ち合わせして、いっしょにどっか出かけようよ」
 想像してみる。
「楽しそう」
「でしょ」
 言いながら、藤谷は棒が二本刺さったソーダアイスを真ん中でパキッと割って、俺に差出し、
「どこ行く? せっかく夏なんだから、海とか、プールとか?」
 などと、あからさまにアウトドアに誘ってくる。
「海パン、授業用のしかない」
 消極的な返事をしながら、それでも藤谷と出かけるのなら海でもプールでも楽しいだろうなと思う。
「じゃあ、午前中にモールで水着を買って、午後からプール行こう」
 藤谷が言い、俺たちは、いまさらだけど、連絡先を交換し合った。
 結局、約束した日には雨が降った。駅前で待ち合わせた俺と藤谷は、とりあえずモールへは行ったものの水着を買う気にはなれず、涼しいフードコートで、たこ焼きなどをはんぶんこして食べながらずっとだらだらしていた。
「なんか、いつもとやってること変わんなかったね」
 別れ際に藤谷が言い、
「でも、夏休みに上野くんに会えてよかった」
 そう続けられた言葉に、
「うん、俺も」
 俺はうなずきながら、高校最後の夏の思い出ができたことをうれしく思っていた。


「もうすぐ文化祭だね」
「うん」
 高校生活最後の文化祭が近づいて、もう準備も佳境に入っている。
「文化祭といえば、ねえ、これ見て」
 放課後、コンビニのベンチで藤谷が俺にスマホの画面を見せてきた。
「なに」
 軽い気持ちで覗き込んだ俺は、驚いてしまった。藤谷のスマホの画面には、俺の写真があったのだ。
「ヒッ」
 俺はのどを空気が抜けるような悲鳴を上げた。
「そんなもの、どこで見つけたんだ」
 藤谷が俺に見せてきたのは、昨年の文化祭で、クラスでハンドベル演奏をしたときの写真だ。俺は、無表情でベルを振り上げていた。しかも、それは明らかに俺のとなりの女生徒をメインに撮影されたもので、俺は意図せず写り込んでしまったモブにすぎない。
「同じクラスの人が持ってて、それ転送してもらったの」
「いますぐ消してほしい」
「どうしてそんなこと言うの。貴重な写真なのに」
 藤谷は言って、大事そうにスマートフォンの画面を撫でた。その拍子に、俺の顔がアップになる。
「やめて、恥ずかしい」
「わかった。これじゃ不平等だから、俺の写真も上野くんにあげる」
 藤谷は言って、スマホを操作すると、俺のスマホに写真を送ってきた。
「……これ、どういう状況? なんのときの写真?」
 送られてきた写真の藤谷は、体操服姿で畳の部屋に正座をしており、さらに、その頭の上には枕がふたつほど乗せられている。
「修学旅行のときの。枕がどれだけ積めるかやってたんだよ」
 くだらなくて思わず笑う。笑い始めると止まらなくなった。
「そんなによろこんでくれて、うれしいよ」
 そう言って、藤谷はスマホを胸ポケットにしまい、はんぶんこにした蒸しパンを片方、俺に差し出した。
「ありがとう」
 笑いながらも、胸がぐずぐずに溶けたように熱い。藤谷の写真が、俺のスマホの中にある。それが、妙にくすぐったかったのだ。

   *

 文化祭が終わり、三年生は一気に受験一色だ。
「いっしょに踊ろうと思って、上野くんのことさがしてたんだよ。どこに隠れてたの?」
 藤谷が不満そうに言った。文化祭の後夜祭で、俺のことをさがしてくれていたらしい。後夜祭では、校庭でフォークダンスを踊るのだ。
「隠れ……あー、べつにそんなつもりじゃなかったんだけど……」
 俺は言う。
「でも、結果的に本当に隠れてた」
「どういうこと?」
 自分のクラスの教室で、教卓の下に物がごちゃっと置かれていたのを、後夜祭が始まる前に片付けておこうと作業していたところ、同じクラスの男女が教室に入ってきていちゃいちゃし始めたため、教卓の下から出るに出られなくなったのだ。そう説明すると、
「なにそれ」
 藤谷はめちゃくちゃに笑ったあと、「高校最後の文化祭だったのになあ」と、拗ねたように呟いた。
「じゃあ、いまからいっしょに踊ろう。フォークダンス
「え、ここで?」
「うん、ここで」
 冗談かと思ったら、藤谷は真剣な様子だ。
「はい、立って立って。上野くん、立って」
 立ち上がった藤谷に急かされて、思わずベンチから立ち上がる。藤谷は俺の手を取り、
「はい。たららりらりら、たららりらりら」
 歌いながら、踊り始める。俺もつられて身体を動かしながら、
「恥ずかしいって」
 一応、抗議の声を上げる。
「俺だって恥ずかしいよ」
 藤谷が言うので、
「じゃあ、なんで」
 疑問を口にすると、
「だって、後夜祭、上野くんと躍りたかったんだもん」
 そんな答えが返ってきた。俺はなんと言ったらいいのかわからず、口を噤む。
「じゃあ、続き。たららったたららららたった」
 藤谷の歌う音楽に合わせて、俺たちは無心に踊る。

   *

「上野くん。唐突に聞くんだけど、彼女とかっている?」
「いない」
「いたことはある?」
「ないよ」
 藤谷は、たぶん彼女がいたことあるんだろうな、と思いながら素直に答える。
「じゃあ、いままで好きになった人って、どんな人?」
「明るくて、話しやすい人」
 俺は、中学のときに好きだった女の子の顔を思い浮かべながら言う。俺みたいなモブにも気さくに話しかけてくれていた彼女のことを、俺は簡単に好きになってしまった。その彼女には、他に好きな人がいたのだけれど。
「明るくて話しやすい人かあ。……俺じゃん」
 藤谷が言った。
「ああ、そうか。藤谷もそうだね。明るくて話しやすい」
「じゃあ、俺って上野くんの好みなんだ」
 藤谷は、なぜかうれしそうに呟くと、
「なんか、俺ばっか質問してる。上野くん、俺にもなにか質問して」
 などと言う。
「好きな食べものは?」
 咄嗟に思いつかなくて、俺はとてもくだらない質問をしてしまった。
「えっとね……」
 藤谷は少し考える様子で、言おうか言うまいか逡巡している様子だった。そんなに言いにくい食べものってなんだろう、と少しおかしく思いながら待っていると、
「上野くんとはんぶんこして食べる肉まんが、好き」
 藤谷はそう言った。
「上野くんとはんぶんこして食べるアイスも好き」
 俺はなにも言えなくなって、ただ、自分の顔が熱くなるのを感じていた。暗くてよかった、と思う。きっと、真っ赤になっている。藤谷が冗談のつもりで口にしたかもしれない言葉で真っ赤になっているなんて、知られたくない。恥ずかしい。
「なんか言ってよー」
 藤谷がふざけたような調子で情けない声を上げた。俺は、なにを言えばいいのかぐるぐると考える。だけど、なにも思いつかなくて、結局、言葉は出てこない。
「泣いてるの? なんで?」
 俺の顔を見た藤谷が焦ったように言った。
「ごめん、びっくりして」
 俺は、自分の目から涙が流れたことに驚いていた。
「びっくりして泣いちゃったの?」
「いや、なんで泣いてるのか、わからない」
 俺は正直に言う。
「自分の気持ちなのに?」
「うん。自分の気持ちがわからない」
「そっか」
 俺の覚束ない言葉に、藤谷はただうなずいた。
「その気持ちがどんなものかわかったら、俺に教えてくれる?」
 そして、そんなことを言った。
「うん」
 俺はうなずき、涙を拭う。


 冬がくる。コンビニの外付けベンチ、放課後の俺たちは相変わらずそこにいる。
「そういえば今日ね、クラスの女子に、あんたたち小鳥みたいだねって言われたよ」
「小鳥?」
「ほら、俺ら、いつもこんなふうにベンチに並んで座ってしゃべってるでしょ。それが、小鳥が電線に並んでチュンチュン言ってる感じにそっくりだって」
「へえ」
 俺と藤谷は、寒さに耐えるために、どちらともなく身を寄せ合っていた。この様子をそんなふうに見られていたのか、と、その視点をおもしろく思う。
 俺たちは、それぞれ違う味の雪見だいふくを買い、一個ずつを交換した。
雪見だいふくを食べてるときにさ、一個ちょうだいって言われたら、嫌だなって思うよね」
 俺が言うと、
「うん。二個しか入ってない贅沢品だもんね」
 藤谷は同意を示す。
 十二月の夜は当然ながら寒い。外なのに、寒いのに、それでもアイスを食べている。吐く息は白く、藤谷の形のいい鼻は赤くなっている。
 藤谷の横顔を眺めながら、俺は自分の気持ちについて考える。そもそも、この横顔を好きだと思ったことを思い出す。
 怖いな、と思ってしまった。自分の気持ちを確認できたからといって、なにかできるわけでもない。多様性の時代とはいえ、当事者となれば話は別だ。藤谷が、俺を受け入れてくれるとは限らない。どうせ卒業すれば離ればなれになるのに、きっともう会うことなんてないのに、どうしてこんなに怖いと思ってしまうのか。そうか、と気づく。俺は、藤谷に嫌われたくないのだ。この気持ちを知られて、嫌われるのが怖い。拒否されるのが怖い。藤谷には、よく思われていたい。それが、たとえ卒業前に少しだけ仲よくなっただけの関係だとしても。もう、会わなくなる関係だったとしても。
「藤谷と、離ればなれになるのは寂しいな」
 少しだけ素直に、ギリギリのラインで自分の気持ちを口にしてみる。
「でも、これっきりになんてならないよ」
 俺の言葉を受けて、藤谷が言った。
「だって俺、会いに行くしね。京都まで」
「会いに……そっか。そういうの、ありなんだ……」
 藤谷の言葉に、俺は意外な気持ちで言う。そんなこと、考えてもみなかったのだ。
「アリ寄りのアリだよ」
 藤谷はきっぱりと言った。
「本当に、会いにきてくれるの?」
「うん」
「俺も、会いに行ってもいいの?」
「うん、もちろん。会いにきてくれたら、うれしい」
「卒業しても、また会えるんだ」
「あたりまえじゃん」
「あたりまえなんだ……」
 藤谷の言葉で、途切れていた未来が繋がって、なんだか気持ちが昂ってしまい、涙が頬を滑り落ちた。
「あ、泣いてるぅ」
 少し茶化すように言ったあと、
「上野くん。いま、自分がどういう気持ちかわかる?」
 藤谷は静かにそう問うてきた。
「うん」
 俺はうなずき、自分の気持ちを言葉にする。
「藤谷のこと、好きだって思ってる」
 俺の口から、思ったよりもすんなりと出てしまった言葉を、
「俺も。俺も同じ気持ちだよ」
 藤谷は、意外にもすんなりと受け取った。
「上野くんのことが、好き。肉まんを半分わけてくれたとき、一瞬で好きになっちゃった」
「変なの」
「変かな」
 藤谷は言う。
「でも、人の感情が動くきっかけなんて、いつだってきっと些細なことだよ」
「うん」
 俺は藤谷の言葉に納得し、素直にうなずく。俺だってそうだった。藤谷の、肉まんを頬張る横顔に、ただ惹かれたのだ。
「俺、上野くんになら、雪見だいふく一個ちょうだいって言われても、よろこんであげられるよ。そのくらい、上野くんが好き」
「すごくスケールが小さいけど、でもすごく愛を感じる」
「でしょ。愛してるもの」
 自分でそう言っておいて、藤谷は、「あー、恥ずかし……」と縮こまってしまった。

   *

「バイトの収入で東京と京都を行ったりきたりして遊ぶんだよ。ラジオ聴きながら、高速バス乗ってさ。そんで、お互いの部屋に泊まってさ、ハタチになったらいっしょにお酒を飲むんだよ」
「うん」
 いつものコンビニのベンチで、藤谷は、近い未来の話をよくするようになった。俺はそれをうなずきながら聞く。その前に、大学に受からないといけないということは、とりあえず置いておく。
「それから、ええと、それからね」
 藤谷はもにょもにょと言い、
「ふたりでしたいこといっぱいある」
 照れくさそうに笑う。
「……ので、いっこだけ、いまさせて?」
 続けて、藤谷はそう言って、きょろきょろと周囲を確認する。
「なにしてんの?」
 疑問を投げかけた俺の口が閉じるか閉じないかのうちに、藤谷は自分の唇を、半開きの俺の唇にくっつけて、すぐに離した。
「外だから、ちょっと急いじゃった。もっとゆっくりしたかったけど、また今度ちゃんとしよ」
 俺は自分の気持ちを言葉にできず、そのまま固まってしまう。
「あ、固まってる。びっくりさせちゃった?」
 藤谷は言い、
「うん」
 俺はうなずく。
「びっくりした」
「ごめん。今度から、ちゃんと申告する」
 藤谷がそんなことを言うので、俺は少し笑った。
 こんなふうに期待と不安がないまぜになった、そわそわした特別な時間を過ごせるのは、卒業までの短い間だけだ。だけど、その先もきっと、楽しい未来が待っている。