停電の町

創作小説倉庫

ビッチとカノジョ

 出張から予定よりも一日早く帰宅すると、同棲中の彼氏が見知らぬ若い女を連れ込んでいた。
「おまえ、ヒモのくせになにやってんだ」
 玄関の扉を開けて出た第一声がそれだった。心情的に、それ以上でもそれ以下でもなかった。言葉にしてみて初めて、私は自分がもう、この男を愛していないのだと気がついた。ただただ腹が立つだけで、悲しくも悔しくもなかった。唯一の救いは、ベッドではなくキッチンの床で事に及ぼうとしていたらしいことだ。自分のベッドでそういうことをされると、さすがに気持ちが悪い。キッチンでも普通に嫌だが、ベッドよりはましだ。
「ここは私が家賃を払ってる私の家だ。私の家でなにやってんだよ」
 私に縋るように、ちがうんだよあっちから誘ってきたんだって泊まるとこないって言うからさ、などと喚いている男をとりあえず殴り、「出てけ」と脛にヒールで蹴りを入れた。
「もう、おまえとは縁を切る。いますぐ出てけ」
 痛みに悲鳴を上げ、うずくまった男のつむじをヒールでコツンと軽く蹴る。
「ねえ、ビッチ」
 私は、ブラウスを半分脱がされてへたり込んでいる女に声をかける。ビッチと呼ばれた女はビクッと肩を震わせて私を見た。反射的に、かわいいな、という感想を抱いた。地味で田舎くさい雰囲気だが、小柄で小動物のような愛らしさがある。清楚系ビッチってこういうのをいうのかな、と思う。
「手伝って」
「え……」
「こいつ追い出すから。とりあえず、手伝って」
「あ、はい」
 ビッチはこくこくとうなずきながら返事をし、
「動けなくしてから運びますか、それとも自分で歩かせますか」
 パニックになっているのか、ものすごく不穏な質問をしてきた。こんなときなのに、少し笑いそうになってしまう。
「……自分で歩かせよう」
 そう答えると、ビッチは立ち上がって、男の腕を取り、
「ほら、立ってください。立てますね?」
 ふんわりとやさしい声で言った。男がのろのろと立ち上がる。
「ほらほら、歩いてください。ゆっくりでいいですよ。足もと気をつけてくださいね」
 やさしく言われると子どものように言うことを聞いてしまうのか、男はビッチの言うとおりにしている。ビッチは高齢者の介助をするように男の腕を取り、玄関に導く。
 私は玄関の扉を開け、男の通る道を空けてやる。
「ほら、ちゃんと靴履いてくださいね」
 まるで労わるようにビッチは言う。男が靴を履いたのを確認して、私は男の背中を強く蹴った。男は、前のめりによろけるようにして玄関から飛び出した。素早く扉を閉めて鍵をかけ、チェーンもしっかりとかける。玄関扉のマグネットフックに男に預けていた合鍵が残っていたので、少しほっとする。扉がドンドンと叩かれたが、無視して、私は履いていたヒールを脱いだ。
「ただいまー。あー、疲れた。足痛い。てか、まだ七時じゃん」
 言いながら、よろよろとキッチンに上がり、手を洗う。
「あの、カノジョさん」
 ビッチが気まずそうに口を開き、
「あたしも、すぐに出て行きます。でも……」
 ドンドンと叩かれ続けている玄関の扉をチラリと見た。外にまだあいつがいるので、出て行こうにもできないのだろう。
「行くとこあんの?」
 言いながら、私はビッチの肌蹴たブラウスを直してやる。
「行くとこは……ないです」
 ビッチは私にされるがままになり、しょんぼりと言った。
「あんた、いつもああいうことしてその日の宿を確保してんの?」
「最近、たまにです。お金があるときはネカフェに行ってました」
「ふーん」
 家出でもしてきたのか。とにかく訳ありなのは間違いないだろう。玄関の扉は、相変わらずうるさい。インターフォンまで鳴らし始めた。早く諦めればいいのに。そんなことを思いながら、
「一応聞くけど、あんた、未成年じゃないよね?」
 そう確認すると、
「はい。身分証は、ちょっといまはあれなんですけど、ちゃんと二十歳超えてます」
「じゃあ、いいよ。しばらくここにいたら」
 私は言った。
「え……」
 ビッチはぼんやりとした声をもらす。私は、キッチンの床に放り出された見慣れないケースのスマートフォンを見つけ、「あ、スマホは持ってんじゃん。お金ないならバイト探したら? ここの住所使っていいからさ」と提案してみる。
「本当に、いいんですか?」
「あんたが嫌じゃなければいいよ。お金貯まるまでいなよ」
 もともとふたりで暮らしていた部屋なので、ひとり減ってひとり増えてもプラマイゼロだ。ビッチが本当にバイトをする気があるならば、完全にヒモだったあいつとの生活よりはマシになりそうな気もした。
「ありがとうございます」
 ビッチは頭がひざにつくくらいに腰を折り曲げて礼を言った。身体がやわらかい。
「本当に、ありがとうございます」
 結構な気まぐれで言った言葉にそんなに感謝されるとは思っていなかったので、なんだか気まずい。そういえば、あの男といっしょに暮らし始めたきっかけも、こんな感じだったと思い出す。どうやら、私には人間を拾ってしまう癖があるらしい。
「あ。警察、呼びますか?」
 唐突にビッチが言った。一瞬、なんのことかわからなかったが、玄関の外で騒いでいる男のことだと理解する。
「いいよ。あいつ、根性ないし小心者だから、そろそろ諦めて静かになると思う」
 うるさくしてしまって、ご近所さんには申し訳ないけれど、警察沙汰は避けたい。
「あ、本当ですね。静かになった」
 ビッチがほっとしたように言う。
「ね。ごはん食べた? なんか宅配頼もっか」
「ピザ食べたいです」
「いいね。あんた、結構図太いね」
 言いながら、アプリでピザを注文する。最悪の出会い方をしたにも関わらず、私は、ビッチに対して好感を抱いていた。

   *

 ビッチとの生活は、ひとことで言うと、快適だった。ビッチは、いままでいっしょに暮らしてきたヒモ男より、よっぽどお行儀がよかった。私の財布から現金を抜くこともなく、私のクレジットカードを持ち出すこともなく、私の持ち物を勝手に売ることもない。さらには、家事を分担してくれた。働きもせず、家事せず、トイレットペーパーの交換すらもしなかったあいつと暮らしていた日々を思うと、雲泥の差だ。なにより、ビッチは料理が上手だった。
「おいしい。なにこれ、すごいおいしい。ビッチは料理が上手だね」
 ビッチが初めて夕飯をつくってくれたとき、私は心から感動してほめちぎった。
「カノジョさん、ほめすぎですよう」
 ビッチは照れくさそうに、でもうれしそうに笑っていた。ビッチのつくってくれる料理は、切り干し大根と大豆の煮物や、ほうれん草の白あえみたいな、地味な家庭料理だった。だからこそ、外食が中心でパスタやレトルトに慣れてしまっていた私の胃袋は、すっかりビッチに掴まれてしまった。働かなくてもいい、ただ、このままここにいてほしい。そう思ってしまうくらいに。
 ある日、ビッチはコインロッカーに預けていたという貴重品や身分証、少しの着替えなどを回収してきた。
「そろそろ、バイト決まるかもなんで」
 ビッチは言った。近いうちに面接があるらしい。
「はい、これ」
 ビッチは、ソファのとなりに座った私に身分証を見せてきた。確かに成人済みだったので安心する。
「なんでコインロッカーなんかに置いてたの?」
「前に、ネカフェで盗難騒ぎがあったんです」
 ビッチは言った。ビッチに被害はなかったが、貴重品を持ってネカフェで寝泊まりするのは危険だと思い、コインロッカーに入れておくことにしたという。コインロッカーも、壊されたり保管期間が過ぎたら終わりなので、安全なのかどうか怪しいなと私は思ったけれど、とはいえ、それらを回収してきたということは、ビッチも私のことを信用してくれたということなのだろう。
「年齢も確認できたし、いっしょにお酒飲めるね」
 そう言うと、
「え、はい!」
 ビッチはうれしそうに返事をした。
 ビッチには客用の布団で寝てもらっている。灯りを消したあと、私のベッドの横に敷いた布団から、
「あの……カノジョさん。あたしの住民票、ここの住所に移してもいいですか? もちろん、出て行くときにはちゃんとまた移しますので」
 ビッチが言った。
「うん、いいよ」
 わざわざ住民票を移すということは、なにかから逃げているわけではなさそうだ。安心すると同時に、「出て行く」という言葉を聞いて少し寂しく思う。そうだ。バイトを初めてお金が貯まったら、ビッチは出て行ってしまうのだ。
「カノジョさん、あたしのこと訳ありだと思ってるでしょ」
 ビッチが、ふいにそう言った。
「うん。思ってる」
 私は正直に答える。
「でも、そうでもないんですよ」
 ビッチは言う。
「少し身の上話をしますと、あたし、前の職場で不倫してて」
「おお。寝る前に重い話?」
 冗談ぽく言うと、「あたし的にはそうでもないんですけど」と、ビッチは笑う。
「あたし、福祉施設で働いてて、そこの先輩と付き合ってたんですね。でも、その人、既婚者で。施設内では指輪とか装飾品は禁止だったんで、付き合い始めてから既婚者だって知ったんですけど、でも、別れられなくてそのままずるずると関係続けてて、それで、結局、職場にばれちゃって、辞めさせられちゃったんです」
 淡々と、薄笑いのような口調でビッチは話す。
「実家暮らしだったんですけど、親にも知られて追い出されちゃって。そんなだから地元にいてしょうがないって感じで、とりあえずこっち出てきて、で、この有様ですよ」
「ご実家、厳しいんだね」
 どんな言葉をかけたらいいのかわからず、私は見当違いの相槌を打つ。
「地元、ド田舎なんで、あたしみたいなのは恥なの」
 でも、ビッチは家事もできるしおいしい料理をつくれるじゃないか。そう思ったけれど、それと不倫を天秤にかけていいものかどうか私にはわからない。
「カノジョさんのことも聞かせてください」
 ビッチが言った。
「いいよ。なにが聞きたい?」
「カノジョさんは、その、あの人と同棲してたんですよね?」
 追い出したあの男のことを言っているのだとわかり、
「ああ、うん」
 私はうなずく。
「どんな出会いだったんですか?」
「あんたと同じ感じだよ」
 思い出しながら言う。
「立ち飲み屋で会って、行くとこないって言うから、住まわせてやって、そのまま……って感じ」
「そっかあ。本当に、あたしと同じだ……」
 ビッチは、ため息を吐くみたいにそう言った。

   *

 私たちはずっと、お互いにビッチ、カノジョさん、と呼び合っていた。いまさら、名前で呼び合うのが照れくさいというのもあったし、身分証を見せてもらったので名前は知っていたけれど、お互い正式な自己紹介をしていないこともあり、私は、なんとなく彼女のことをずっとビッチと呼び続けていた。なかなかにひどい。自分でもそう思うが、ビッチはビッチでこの呼び方に対して不満を口にしない。そのため、この状態が続いてしまっている。一度、チラッと、「この呼び方よくないよね。嫌ならやめるけど」と言ってみたことがあるが、「昔からそう呼ばれてたんで、そのままでいいですよ」と言われた。
「昔からビッチだったの?」
 デリカシーのない質問をすると、
「いえ、ビッチになる前から意味もわからずそう呼ばれてました。本名をもじった呼び方だったんですけど」
 ビッチはそう答えた。
「でも、実際ビッチになっちゃったんで。名は体を表すって本当ですね」
 ビッチは笑っていたけれど、私は笑っていいのかどうかわからなかった。
 ひと月ほど前から、ビッチは近所の大学で事務のバイトを始めていた。ときどき、大学の生協でパンを買って帰ってくる。ふたりで夜食に牛乳を飲みながらパンを食べて、他愛のない話をする。どこそこの道が工事で通行止めになっていたとか、同じ場所でいつも同じ猫に会うとか、そんな些細な出来事を報告し合うのだ。ビッチと暮らし始めてから、夜の牛乳が習慣になった。
 週末はいっしょに買いものに行く。洋服などを見るだけ見て回って、最後に一週間の食材をまとめ買いする。ビッチはまだ働き始めたばかりなので、いまのところ、私が食費や生活費をすべて出していた。ビッチは申し訳なさそうにしていたけれど、その代わり、いつもおいしい料理をつくってくれるので、私はそれでトントンだと思っていた。
 ある日の週末、いつものように洋服を見て回っていると、
「あ……」
 ビッチが小さく声をもらし、トルソーが穿いているスカートに手を伸ばした。
「かわいい」
 ビッチが思わず、という感じにこぼす。そのパステルグリーンのシフォンのスカートは、確かに、ビッチによく似合いそうだった。
「買ってあげよっか」
 思わず、そう言っていた。現在、ビッチは文句も言わず私のお下がりを着ていたし、ずっと新しい服を買おうとすらしていなかった。着替えがあるとはいえ、そろそろちゃんとした自分の好きな服も欲しかろうと思ったのだ。
「えっ」
 ビッチはぎょっとしたように私を見て、
「いいです、いいです。そんなっ」
 必死の様子で首をぶんぶんと横に振った。
「でも、それ欲しいんでしょ? ビッチに似合うと思うよ」
 そう言うと、
「でも、買ってもらうわけにはいきません」
「なんで? 私が買ってあげたいのに」
「これ以上、カノジョさんのお世話になるわけにはいかないです。それでなくても、いろいろしてもらってるのに。買うときは、自分のお金で買います」
 そうきっぱりと言われてしまって、
「そっか。わかったよ」
 私も引き下がるしかない。でも、買ってあげたかったなあ、などと思っていると、
「カノジョさんが、ダメ男に引っかかるのわかる気がします」
 ため息を吐いて、ビッチは情けない表情で笑った。
「なにそれ」
「ダメ男どころか、あたしみたいなのにも引っかかってるし」
 そう言われて、私も笑ってしまう。
「じゃあ、ビッチがこの服を買う日まで、ここのお店を毎週見張りにこよう」
「見張りに?」
「売れてないか、見張るの」
「見張ってても、売れるときは売れちゃいますよ」
 そんなふうに言いつつも、ビッチは楽しそうにしていたのに。

   *

 その日は、唐突にやってきた。ビッチがいなくなったのだ。
 会社から帰ると、リビングのテーブルの上にビッチの書き置きがあった。
『お金が少し貯まったので出て行きます。住むところが決まったら住民票も移します。心配しないでください』
「馬鹿な」
 私は呟く。そんなに早くお金が貯まるものか。
 文面から、ビッチは行くところもないのに出て行ったらしいことがわかる。またネカフェにでもいるのかもしれない。心配しないで、とは、ビッチのことか住民票のことか、どちらにかかっているのだろう。そんなことを考えつつも、私の全身は、悲しみで満ちあふれていた。ビッチは、もう私と暮らすのが嫌になったのだろうか。傍若無人な私の態度に、愛想が尽きたのかもしれない。
 私は、昨夜のことを思い出していた。
 昨日は、かねてから交渉中だった大口の契約が決まり、上司がお祝いと称して私たち部下を飲みに連れ出したのだ。私は早く帰りたいなあと思いつつも、上司の奢りだからと意地汚く考え、存分に飲み食いをし、べろべろに酔っぱらってしまった。たまたまそばにいたため生贄になった後輩がタクシーでマンションまで送ってくれて、部屋の前まで抱えて運んでくれた。
 玄関先で迎えてくれたビッチに、「ただいまあ」と全体重で抱きつき、「ちょっと、ちょっとカノジョさん。ちゃんと立って……」などと言われながら、玄関で吐いた。大惨事だ。
 べろべろに酔っぱらって迷惑をかけた。吐瀉物の掃除をさせた。
 それだけでもかなりあれだが、それだけが原因ではないだろう。きっと、ビッチの中に積もり積もったなにかがあふれて、私と暮らすのが嫌になったのだ。だから出て行ったのだ。そう思うと、悲しくて仕方がなかった。
 どうしよう。ビッチに電話をかけようか、それともメッセージを送ろうか。ぐるぐると考えるが、どういう言葉を伝えたらいいのかわからない。
 その夜、私はリビングのソファに座って茫然としたまま朝を迎えてしまった。
 なんとかシャワーを浴びて出勤すると、
「おはようございます」
 生贄の後輩が挨拶をしてきた。
「おはようございます。先日はありがとう。迷惑かけて申し訳ない」
「いえ、全然。僕はいいんです。けど、あの子、先輩の……なんて言っていいのか、大事な人ですよね?」
 あの子というのは、ビッチのことだろう。そう言われて初めて、私は、自分がビッチを大事に思っていたことに気がついた。
「ああ、うん。そうだね。違いない」
 肯定すると、
「あの子、僕が先輩を抱えてるの見て、すごく傷ついたみたいな顔してたから、なんか、大丈夫だったかなと思って」
 申し訳なさそうに後輩は言った。
「いや、うん。大丈夫」
 ビッチは出て行ってしまったので全然大丈夫ではなかったが、後輩に心配をかけてもしょうがないので一応そう言う。
「なら、よかったです」
 後輩は安心してように言い、それじゃ、と行ってしまった。
 それかもしれないぞ、と思う。ビッチは、私と後輩との関係を勘違いして、気を遣って出て行ったのかもしれない。私と暮らすのが嫌になったわけではないのかもという可能性が出てきて、私は少し元気になる。ビッチめ。無駄にフットワークが軽いんだから。とはいえ、私のだらしなさが招いた結果だ。後輩にも、ビッチにも迷惑をかけた。
 ビッチのフットワークの軽さを見習って、仕事を早めに切り上げて、ビッチのバイト先へ迎えに行くことにした。ビッチはあれで責任感があるので、バイトを急に辞めたりはしていないだろう。そう思ったのだ。
 ビッチの仕事が終わって出てくるのを大学の入口で待ち伏せする。若々しい者たちがこちらを気にすることもなく通り過ぎて行く。
 程なくして、出てきたビッチが私を見つけて動きを止めた。
「ビッチ、迎えにきたよ。もしまだ行くとこ決まってないなら、戻っておいで」
 ビッチに近づきながらそう声をかけると、ビッチは、上目遣いに私を睨む。そういう表情もかわいいな、と、私はのんきに思う。
「そう、行くとこなんてないんです。あたしは、本当はどこにも行けない。カノジョさんのとこしか行きたいとこなんてないのに。でも、カノジョさんはあたしのことなんて、いつでも捨てちゃえるでしょ。いっしょにいたら考えちゃって、それがつらいんだもん」
 ビッチは言う。
「捨てないよ」
「捨てるよ。あたしは、男の人みたいにカノジョさんを抱えられる腕力もないし、それどころかずっとお世話になりっぱなしだし、役立たずだもん。カノジョさんに新しい恋人ができたら、あたしなんていらない。邪魔者じゃないですか」
「あんたは役立たずなんかじゃないし、邪魔なわけないじゃん。それに、このあいだのだって、ただの会社の後輩で、別にそういう関係じゃないよ」
「でも、あたし、見たもん。カノジョさんが男を捨てるとこ、目の前で見てたもん。あたしだって、あんなふうに捨てられちゃうんだ」
「だって、あれはもういらなくなったものだったから」
「あたしのことも、いつかいらなくなるんでしょ」
「わかんないけど、ならないよ、たぶん」
「うそだ」
「だって、私、あんたのことかわいいし、好きだもん。新しい恋人なんてつくらないよ。私は、あんたのカノジョだよ」
 私の言葉に、ビッチは驚いたような表情をし、それから、眉をハの字にした。
「あんたのこと、捨てずに大事にそばに置いておきたいよ。あんたのつくるごはんを食べて、一生、おいしいって言っていたいよ」
 そう続けると、
「そういう感じの考えって、もう古いですよ」
 ビッチは言い、
「でも、ずるい。うれしいって思っちゃった……」
 震える声でそう言って泣いた。
「帰っておいで、美知花」
 私は、ビッチの本当の名前を呼ぶ。
「そこで名前呼ぶのもずるいよう……」
 腕をひろげて、私は美知花を抱きしめる。人目はあまり気にならなかった。
「帰っておいで」
「はい」
 美知花はうなずいて、私の胸に顔をうずめた。
「帰ったら、いっしょにお酒飲もっか。なんだかんだ、まだ一度もいっしょに飲んでなかったもんね」
 思えば、美知花と暮らし始めてから、夜は牛乳ばかり飲んでいた。でも、そんな落ち着いた夜も好きだった。美知花といっしょだったから。
「いいけど、飲みすぎないでくださいね」
 涙声で美知花が言い、
「気をつけます」
 私は神妙にうなずいた。美知花が、私の胸に顔をぐりぐりと押しつけてくる。
「ねえ、ちょっと、鼻水拭いてない?」
「待って、なんでばれたの」
 そう言って美知花が、へへへ、と笑ったので、私は安心して、美知花を抱く腕にぎゅっと力をこめた。