停電の町

創作小説倉庫

ふたりは夜の道をゆく

 深夜、道ばたで嘔吐する茂谷素晴の背中を、俺は無言でさする。飲み過ぎたのだ。
「ごめん、直純。ごめん」
 言いながら、素晴は吐く。吐きながら泣く。俺は、やはり黙って背中をさすり続けた。
 素晴は、一年間付き合った彼女に、今日、ふられたらしい。泣きながら俺のスマホに電話をかけてきた。
「直純、会いたい。いまから会える?」
 素晴は、涙声でそう言った。耳元で聞こえるその声に、勘違いをしてしまいそうになるけれど、それを勘違いだということを誰よりもよく知っている俺は、「いいよ。じゃあ、飲みに行こう」と軽く言った。
 素晴とは、小学校のころからの付き合いだ。高校は別々のところに進学したけれど、偶然にも大学で再会した。サークルの新歓コンパだった。
「廣田直純です」
 自己紹介をした瞬間に、「直純!」と声を上げたのが、素晴だった。
「おれ、おれだよ! 茂谷素晴!」
「うそ、素晴?」
 まじかよ。
 俺の心臓が、ぎゅっと縮まった。
 それ以来、友だち付き合いが復活したのだ。
 しかし、俺にとっては誤算だった。俺は素晴と距離を置きたかったのだ。だから、素晴とは別の高校へ進学したのに。大学で再会するなんて、大誤算だ。自分の専攻を優先した結果ではあるが、わざわざ、誰も敢えては選ばないような田舎の大学に進学したのに、どうしてこういうことになるのだろう。
 素晴は、そんな俺の心中も知らず、直純、直純、と無邪気に俺に触れてくる。
 ああ、もう、やめてくれ。俺にさわるな。俺に話しかけるな。俺の視界に入るな。
 しかし、そんなことを言えるわけがない。俺は、素晴の恋愛相談に親身に乗ってやり、それがうまくいけば惚気を散々聞かされた。そして今日、別れた彼女への未練を延々と聞かされたのだ。泣きたいのは、俺のほうだ。
「素晴、大丈夫か?」
 俺は、やっと口を開く。
「歩けそうか?」
 うん、と素晴は小さくうなずいた。
「直純、ごめん」
「いいよ」
 俺は、素晴の手を引いて歩く。素晴の手は、熱い。子どもみたいに体温の高いその手を、俺は軽く握る。気を付けていないと、感情に任せて強く握ってしまいそうになる。ぎりぎりと力が入りそうになる手に、そうならないように神経を集中させる。
「直純、ごめーん」
 素晴は泣いている。
 もういいよ。泣くなよ、もう。面倒くさい。俺だって泣きたいよ。
「直純、ごめーん」
 もういいってば。
 素晴はわんわん泣いた。
 素晴のアパートは田んぼの真ん中にある。夜になると人通りは少ない。蛙の声だけが、ケロケロと軽やかに響いている。
「直純」
 素晴が突然立ち止まるので、俺の手は後ろに引っ張られた。
「空が落ちてきそう」
 夜空を見上げた素晴が言う。つられて見上げると、空には星が粉砂糖のように散らばっていた。
「直純」
 素晴が言う。
「直純、直純。ねえ、直純……」
 呼ぶな、と思う。そんな甘えたような声で、俺の名前を呼ぶな。
 直純、直純、と俺の名前を呼びながら、やっぱり素晴は泣いた。俺は黙っている。いましゃべると泣いてしまいそうだった。ただ、素晴のアパートへの道を、素晴の手を引いて急ぐ。街灯のない道は、真っ暗だ。
 素晴への気持ちに気付いたのは、中三の時だった。
 いつからそんなふうになっていたのかはわからない。なぜ素晴なのかも、よくわからなかった。ただ、いつの間にか、そうなっていた。
 素晴が他の誰かと仲良くしていると、嫉妬してしまう。素晴に触れられると、いたたまれない気持ちになる。うれしいような悲しいような、複雑な気持ちだった。
 俺は、素晴に恋をしていた。このまま素晴の隣にいるのがつらかった。だって、どうせ叶わない恋だ。容姿端麗な素晴は女の子にモテたし、見た目は中の下で、しかも同性の俺を、素晴がそういうふうに見てくれることなんて、きっと一生ない。だから、俺は素晴から離れることにしたのに。
 アパートの鍵を、素晴のリュックからなんとか探し出し、ドアを開けて素晴を部屋に押し込む。
「ちゃんと鍵かけろよ。田舎でも、最近は物騒だから」
 言って、帰ろうとすると、シャツの裾を掴まれる。
「泊まってってよ、直純」
 言われて、俺はため息を吐きそうになるのを飲み込んだ。
「いやだ」
「なんで」
「なんでも。いやだ」
「ひとりでいたくないんだよ」
 素晴はまた泣き出した。
「直純、お願い、直純」
 いやだ。もう一度、そう言うだけでよかったのに、俺は素晴の部屋に入り、ドアの鍵を閉めた。こうなったら、もう負けだ。というか、素晴を拒否できない俺は、最初から負けている。
「泣くなよ、素晴」
 泣きたいのは俺のほうだ。
 素晴は、覚束ない手つきで電気を点け、俺の手を引いて部屋に入る。そして、俺をベッドに突き飛ばすようにして寝かせた後、自分もベッドに横になった。
「なにやってんだ」
「いっしょに寝ようよ」
 素晴が言う。
「いやだよ。あほか、おまえは」
 言って、ベッドから下りようとすると、
「なんで、いやがるんだよう」
 素晴が俺の腕を強く掴んだ。
「いやなもんはいやだ。男ふたりでひとつのベッドって、気持ち悪いだろ」
 俺は、普通のひとが普通に言いそうなことを言った。それだけなのに、素晴は顔を歪めてしゃくり上げるのだ。
「直純、気付いてたんだろ。だから、おまえ、ちがう高校へ行っちゃったんだ」
 素晴は言った。
「なに言ってんの、素晴」
「おれが気持ち悪かったんだろ」
「だから、なにを言って……」
 素晴は俺の言葉を遮るように続ける。
「おれだって、努力したんだ。他の人を好きになろうとしたんだ。努力したんだ、何回も。でもだめだった。やっぱり好きなんだ」
「もう、それ今日、散々聞いたって」
 俺は言う。また彼女への未練をぐだぐだと聞かされるのかと思うと、うんざりした。
「ちがう」
 素晴は首を振る。
「ちがうよぉ」
 言って、素晴は俺の胸に顔をうずめてしくしくと泣いた。
「直純、ごめーん」
 そう言いながら、泣いた。
「だめだったんだ。やっぱり好きなんだ」
「わかったって、もう」
「ちがう」
「なにがちがうんだよ」
「直純、ごめーん」
 堂々巡りだ。
 俺は、だまって素晴の背中に手を回し、さすった。そうすると、なんだか素晴を抱き締めているように錯覚して、複雑な気持ちになる。
「直純、ごめーん」
 素晴は泣いている。
「やっぱり好き。直純が好き」
 泣きながら、素晴は言った。
「もう、わかったって」
 惰性で軽く流したあとに、ふと違和感を覚えた。
「素晴、おまえ、いまなんて言った?」
「言わない」
「なんだ、それ」
「気持ち悪いもん」
 素晴は、またしくしくと泣く。もうそれ以上は聞かず、俺は素晴の背中をさすり続けた。素晴が俺に、ぎゅう、と、しがみついてくる。俺は素晴の身体を、今度は本当に抱き締めた。
「直純、ごめーん」
 素晴は泣いた。
「泣くなよ、もう」
 泣きたいのは、俺のほうだ。いまさら、素晴の気持ちを知ったからといって、なにを言えばいいのかわからない。
「こんなことになって、おまえの未来は真っ暗だぞ」
 俺が言うと、
「そんなことないし、もしそうなら、今日みたいに手を繋いで歩こう」
 素晴がなんでもないことのようにそう言った。
「そうしたら、きっとこわくないよ。星も出てるし、暗くても大丈夫」
 俺の唇に押しあてられた素晴の唇からは、少しゲロの匂いがした。

   *

「あのさ」
 翌朝、眠っている俺を乱暴に揺すり起こして素晴が言った。昨晩、あれだけ泣いたからだろう、俺の顔を覗き込んだ素晴のまぶたはむくんでいる。
「付き合うんだよね、おれたち」
 あれから、抱き合ったまま眠ってしまったらしい。抱き合ったまま、寝起きのガラガラ声でそう問われ、
「なんで?」
 半ば反射でそう返してしまった。
「なんでって、直純もおれのこと好きなんでしょ? だったら、もうそうなるしかないじゃん。そうしたいじゃん」
「俺はそんなこと言ってない」
 なぜ素晴はそんなふうに確信を持てるのか、疑問に思って答えると、
「言われてないけど、でも、キスしたじゃん」
 覚えているんだな、と少し意外に思う。あんなにべろべろに酔っていたのに。
「おまえが勝手にしてきたんだろ」
「いや、そうだけど。でも、直純、いやがんなかったじゃん。普通に受け入れてくれたじゃん。おれのこと好きだからじゃないの」
 俺は黙ってしまう。
 昨晩、確かに覚悟を決めて素晴のキスを受け入れたつもりだったのに、朝になって、急に怖気づいてしまった。長い間、抱え続けてすっかり拗らせてしまった初恋だ。そう簡単に解き放てるわけがない。
 俺は、ベッドで抱き合っている状態のふたりの身体を物理的に離そうと、両手を素晴の胸にあてて、突っ張る。しかし、思ったよりも強い力で拒まれ、素晴の胸の中に頭をすっぽりと抱え込まれてしまった。
「はなさないよ。やっとつかまえたんだ。絶対、はなさない」
 素晴が強い口調で言った。
「せっかく、別々の高校行ったのに、なんで大学で会うんだよ……」
 俺の呟きに、
「知らないよ。たぶん、運命なんだよ」
 素晴が不機嫌そうに、だけど結構クサいことを言った。俺は素晴の身体を離そうと、再びもがく。
「なんで、そんなにおれから離れたいの? キスはさせてくれたくせに、なんで?」
「だって、好きだから」
 ぽつりと言う。目に涙が滲んだ。
「好きだから、あれ以上いっしょにいられなかった。叶わない想いを抱えて、おまえの隣にいるのはつらいよ」
「叶わなくない。叶ったでしょ、昨日。安心して隣にいてよ」
「いまは、おまえの人生、駄目にしたくない。好きだから」
「駄目になんてなんないよ。直純がいないほうが駄目だ。直純がいてくんなきゃ、おれの人生、真っ暗だよ」
 俺の吐くうじうじした言葉に、
「直純が、世界中から嫌われても、絶対にはなさないから。おれだけは直純のこと好きだから」
 素晴はやはりクサい言葉を吐く。
「なんだよ、それ。俺、どんな大罪を犯したんだよ……」
 そう言いながら、今日は俺がぐずぐずと泣いている。
 素晴が好きだと言ってくれてうれしい。うれしいのに、本当にこれでいいのか、という疑問が拭えない。
「昨日は、彼女にふられたって泣いてたくせに。彼女のこと、好きだったんじゃないのかよ」
「そう言ったら、直純、会いにきてくれると思って」
「なんだよ、それ」
「ふられたってぐずったら、直純、やさしくしてくれると思って」
「最悪」
 まんまと会いに行ってしまった。そして、まんまとやさしく慰めてしまった。
「好きだよ、直純。直純も、おれのこと好きなら、なにも問題ないじゃん」
 俺は、どう返事をしていいのかわからない。
「直純が好き、直純が好き、直純が好き」
 素晴は呪文のように、だけど強い口調で繰り返す。
「もう、離れてかないで」
「うん」
 そう言われ、俺は根負けしてうなずいた。
「わかった。覚悟を決める」
「どういうこと? おれと付き合うのって、そんなに覚悟が必要なことなの?」
 素晴はそう言うけれど、覚悟は必要だ。いくら多様性の時代とはいえ、同性同士でくっつくとなると困難に直面することもあるだろう。
「必要だよ。初めての恋でわかんないことだらけだし、それに社会的にも……」
「えっ、おれって、直純の初恋なの!?」
 俺の言葉を遮るようにして、素晴が感極まったような声で言う。俺は素晴の胸に押しつけられていた頭を、もがいて解放させると、素晴の顔を見た。
「泣きそうじゃん」
 目をうるうるさせている素晴を見て、思わず言う。
「だって、うれしいもん」
 素晴のその言葉で、俺は、なんとなく胸のつかえが取れたような気がした。
「そっか、うれしいのか」
「うれしいよ。すごくうれしい」
 素晴はなんの憂いもなく、うなずいている。単純だな、と思う反面、このくらい単純に考えたほうがいいのかもしれない、とも思う。俺は素晴のことが好きで、幸運なことに、素晴も俺のことが好きだという。だったら、それでいいのかもしれない。
「俺は素晴のことが好き」
 声に出して言ってみた。こじらせていた初恋が、すとんと腹に落ちた。
「じゃあ、おれたち、付き合うんだよね」
 素晴が言った。
「うん」
 俺は、やっと素直にうなずいた。
「真っ暗な道でも、大丈夫。直純がいるから、こわくないよ」
 そう言った素晴は、うれしそうに泣き笑いの表情だ。
 この表情が、自分に向けられていることが、たまらなくうれしい。俺は、単純にそう思う。