停電文庫

創作小説倉庫

愛すべきおまじない

 胃が弱いというのは考えものだ。ほんのちょっとの緊張やプレッシャーで、俺の胃はキリキリと悲鳴を上げる。たとえば定期テスト、たとえば体育の授業、たとえば女子との会話。例を挙げるときりがない。心臓よりも先に、胃のほうがギブアップを叫ぶのである。
 胃が痛くなると、おれはその場にうずくまってしまう。立っていられなくなるのだ。そのたびに、クラスの保健委員が俺のところへやってきて、「大丈夫か、萩野」と、おれの身体を支えて保健室へ連れて行く。
「ごめん。いつも、ありがとう」
「気にするな」
 誰にでも分け隔てなく優しげな笑顔を見せるその保健委員、名を清水という。高校に入ってから知り合った。単純明快に、いいやつである。
 六月の半ば、知り合ってまだ三ヶ月も経っていないというのに、おれは清水に世話になりっぱなしだった。清水が近くにいればいるほど、俺は安心した。清水がいれば、いつ胃が痛くなっても大丈夫。そう思っていたのだ。
 それなのに、最近、どうもおかしい。清水が近くにいればいるほど、おれの胃はキリキリと痛むようになってしまった。それどころか、清水の顔を見るたびに、どっくんと心臓が跳ね上がり、次にはもれなく胃が痛くなる。もっと言うと、清水のことを考えるだけで、胃がじわっと違和感を訴えてくる始末だ。一体どうしたことだろう。
 清水は今までと変わらず、胃が痛くなったおれを保健室へ連れて行ってくれる。今日も例外ではない。帰り際、靴箱のところで清水に出くわしてしまったおれの心臓が、どっくんと大きく脈打ち、そして、やっぱり胃がいたくなってしまった。
「萩野。一度、病院でちゃんと見てもらったほうがよくないか」
 清水は言う。
「病院へは行ってる。神経性のやつだから、これ以上どうにもなんないんだ」
 答えながら、おれは清水に掴まれた二の腕を気にしていた。清水のてのひらは熱い。それとも、熱いのはおれの二の腕だろうか。そう考えた瞬間、胃がギリギリと悲鳴を上げた。意識が遠くなる。おれは遠のく意識の端っこを手放すまいと、必死で頭を働かせる。考えるのをやめたら、失神してしまいそうだった。
「おい。大丈夫か、萩野」
 明らかに様子のおかしいおれを気遣う清水の言葉が、なんとなく遠くに感じた。
 おれの胃が、清水に反応するようになったのは、いつごろからだったろう。考えて、思い当る。衣替えが終わってからだ。制服が半袖になった途端、清水にさわられると緊張するようになったのだ。清水の手が、直におれのむき出しの腕にふれると、ありえないくらい緊張する。清水の手が、シャツの半袖から滑り込んで二の腕にふれると、さらに緊張する。だから、今も緊張している。二の腕が熱い。胃が痛い。

 気が付くと、保健室のベッドに寝かされていた。結局、失神してしまったようだ。ここまで運んでくれたのは当然、清水だろう。それを思うと失神していてよかったような気がする。もしかしたら、失神してしまったほうが楽なのかもしれない、痛みも感じないし、清水のことも気にしなくて済む。そんなことを思っていると、
「萩野」
 清水が俺の名前を呼んだ。
「大丈夫か?」
 そう尋ねられ、前髪のあたりを撫でるように優しくさわられた。その瞬間に芽生えた感情に、おれは戸惑う。今、おれは間違いなく、うれしかった。清水にそうされて、うれしかった。少し落ち着いていたようだった胃が、再び悲鳴を上げる。そして、思った。
 おれは、清水が好きなんだ。だから、清水を見るたびに緊張してしまうのだ。なんてこと。
 もしかして、これって恋なんですか? 恋って、胸が痛くなるもんなんじゃないんですか? おれはどうして、どうして胃が痛くなっちゃうんだろう。
 なんでおれだけ、と理不尽だという気持ちがふつふつとこみ上げてきて、薄くて重たい布団をがばりとかぶり、おれはしくしくと泣いた。
「痛いのか」
 ベッドの横に立ったままの清水が、心配そうな声で言った。
「痛い」
 俺は答え、「痛いよう」と言いながら、しくしくと泣き続けた。
「萩野」
 清水がおれを呼ぶ。やめてくれ、呼ばないでくれ。うれしいけど、もっと痛くなる。そう思っていたら、かぶっていた布団を剥がれてしまった。
 泣き顔を見られた羞恥と、胃痛への恐怖から、清水の顔を直視できない。
「萩野」
 囁くような清水の声が、耳元で聞こえた。胃がギリギリと締め付けられるように痛む。
「今、先生いなくて」
 清水が言う。
「俺、どうしたらいいのかわからないから」
 そう言った清水は、おれの腹にてのひらをあて、なでなでとさすった。清水は無言でおれの腹をさする。おれは、清水に腹をさすられながら、またしくしくと泣いた。
「痛いのか」
 清水が、自分も痛そうな声で言うので、おれは痛くないよと首を振る。清水がほっとしたように表情を緩めたのを見て、おれはまたしくしくと泣いてしまう。本当は、まだ少し痛かった。痛かったけれど、さっきほどの痛みはなくなっていた。清水がそうやってさすってくれると、どんどん楽になっていくような気さえする。おれは清水のズボンのベルトのところを掴んだ。清水の身体のどこかしらにさわりたかったのだけど、なんとなくそこを掴んでしまったのだ。
「もっと、さすって」
 そう言ったおれに、清水は、「うん」と頷いて腹をさすりながら、ベルトを掴んだおれの手を、もう片方の手でやんわりと握ってくれた。
「もっと」
 調子に乗って言うと、清水は少し笑い、ぎゅっと強く手を握ってくれたので、うれしくて、どきどきして、また胃の痛みがぶり返してしまった。