坂道激突事件
自転車を押して坂道を上り、てっぺんから、ブレーキをかけずに一気に駆け下りる。耳元で風がびゅうびゅうと鳴っていた。胃の腑がふかっと浮くような心地が病み付きになる。俺は、たったひとりで即席ジェットコースターごっこを繰り返し楽しんでいた。思えば、危険な遊びだったと思う。過去形なのは、もう二度としないと誓ったからだ。
高一の春、日曜日。俺は、即席ジェットコースターの危険さ加減を、身を以て体感することになる。坂道を一気に駆け下りた俺の自転車は、歩行者を巻き込んで転倒した。
「なんで同じ部屋なんだよ」
隣のベッドで唸るように言った一生の表情は、カーテンで遮られて見えない。しかし、きっと苦々しい表情をしているのだろうと想像する。
「おまえが骨折したのは俺のせいだが、同じ部屋なのは俺のせいじゃない」
一応、そう弁解を試みたものの、
「おまえがおれにぶつかってこなきゃ、同じ部屋になることだってなかったんだ」
と、もっともなご意見をいただいたので、俺は、「ごめん」と言い、口を噤む。何も言い返せない。
俺が自転車でぶつかったのは、偶然にも前方を歩いていた同じクラスの越智一生だった。俺たちの暮らす、この島の人口の六十パーセントが越智姓である。ちなみに、俺の菅という名字は、人口の三十五パーセントを占めている。クラスの名簿の前半は越智で埋め尽くされ、後半は菅で埋め尽くされるという現象は、この島ではすでに当たり前のこととして受け入れられている。あまりにも越智や菅が多いものだから、クラス内ではお互い名前呼びが普通だ。そんな島で、菅くんが歩いていて越智くんに出会うことなんて、珍しくもなんともない。しかし、くだらないひとり遊びをしていた菅くんが自転車で越智くんに激突したのはいけないことだった。これは、全面的に菅くん、つまり俺が悪い。
結果、俺は左腕を骨折し、一生は右足首を骨折した。しかも、俺の腕は固定してくっつくのを待てばいいという程度の骨折だったのに比べ、一生の足首の中では、折れた骨の欠片が肉に刺さっているという悲劇が起こっていたために、一生は手術をしなくてはいけなかったのだ。
明日退院する俺に、先ほどから一生はぐちぐちと文句を言う。俺は、それを黙って聞く。一生が文句を言いたくなるのも当然で、自分に激突した張本人が先に退院するなんて、やっぱり腹が立つはずだ。
「理不尽だ」
隣のベッドで一生は湿っぽく言う。
「なんで、おまえのが軽傷なんだ」
「ごめん」
俺は、謝るしかない。
「なんか、すごいひどいバチが当たれ」
一生はそうやって俺をなじる。バチが当たるのはいやだなあと思うが、しかし、バチが当たっても仕方がないとも思う。
「ごめんて。泣くなよ、いっくん」
「泣いてない。いっくんて言うな。おれら、そもそも仲良くないだろ」
一生は怒る。確かに、俺と一生は親しくはない。中学が別々だったということもあるが、高校に入って同じクラスになってからも、なんとなく話す機会がなかった。だから、この坂道激突事件が、一生との初の会話のきっかけではあったのだ。
退院してからも、俺は毎日病院へ行った。一生の見舞いだ。まだ左腕を吊っているので、自転車には乗れない。俺は歩いて病院へ向かう。
一生は、いつもぷりぷりと怒ってはいたが、俺を無視したりはしなかった。俺は学校帰りに一生の病室に寄り、ベッドの横の椅子に座って、その日、学校であった他愛もない出来事を話した。
「おまえ、なんかやなことあったか?」
と、俺が病室に顔を出す度に一生は言う。
「いや、ないな」
そう答えると、
「くそ。まだか。まだなのか。神様は何やってんだ」
一生の苦々しい顔がおもしろくて、俺は笑う。
「笑ってんじゃねーよ」
そういう一生も笑っているので、なんとなく気持ちが軽くなる。罪の意識なのかなんなのか、一生が笑っていると俺はとてもうれしい。
「バチって、なかなか当たんないもんなんだな」
一生はしみじみとした口調で言った。
「リハビリは順調か?」
聞くと、
「順調」
一生は答える。
「足、痛くないか?」
「痛くない」
「そうか」
この会話が、俺が病室を去る時の挨拶みたいになっている。
「もう帰んの?」
今日、一生が珍しくそんなことを言った。
「帰るよ。どうした」
そう答えると、
「もう少しいれば」
少し黙った後に一生は言った。
「なんだ、寂しいのか」
からかい半分にそう言ったのだが、一生は何も言わない。
「まじか」
思わず呟いて、俺は椅子に座り直す。
「おれの足が治ったら、おまえはもう、おれと話さなくなるかもな」
一生は天井を見上げたまま、言った。
「なんで?」
胸の奥のほうが微かにざらついた。話さなくなる? なんで? なんで一生は、そんなことを言うんだろう。
「別に、もともと仲良くなんてなかったし。おまえは、おれに怪我させた責任を感じてるからこうして毎日来るんだろうし、おれの足が元に戻ったら、おれたちも元に戻るんだろうなと思っただけ」
そんな馬鹿な。なんで、そういう理屈になるんだ。
「元に戻らないといけないのか? もう仲良くなったのに?」
一生は、驚いたような、呆気にとられたような、そんな微妙な表情で俺を見た。
「ああ、そうか。もう、仲良くなってたのか」
一生は言った。そうか、ともう一度続いた言葉に被せるようにして、
「退院したら、いっしょに遊ぼう」
俺は、急いで言う。元に戻るのはいやだ。せっかく仲良くなったのに。罪の意識とは違う、わけのわからない焦燥感が俺を急き立てていた。
「なにすんの? 自転車で坂道下ったりすんの?」
そう言われ、
「それは、もうやめた」
慌てて答えると、
「やめたのか。よかった」
一生は笑った。